人類はついに「温暖化」という最大の危機を克服した。しかし、それは各国間が政治の利害を超えて連携し、CO2の削減目標を果たしたわけではない。成長を正義とする市場経済主義を捨て、パラダイムを変革したわけでもない。科学の力によって、地球の気象を思いのままに操ることを可能にしたのだ。
英知の結晶ともいえる気象コントロール衛星の開発。これにより、人類は永遠に大干ばつからも爆弾低気圧からも、巨大ハリケーンや津波からも解放された。食糧問題も水資源の枯渇にも悩む必要はなくなった。いわば、神の力を手に入れたはずだった…。ところがある日、異変が全世界を危機に陥れる。突然、衛星が謎の暴走を始め、各地で異常気象を発生させたのだ。熱帯のブラジルでは大寒波、香港では地割れ、ドバイでは大洪水。世界の主要都市を襲う地球規模の同時多発巨災(ジオストーム)の発生に、衛星システム開発に当たったエンジニアが原因を突き止めようと宇宙に飛び立つ。彼らがそこで目にした驚愕の事態とは…?
――これが「ジオストーム」のあらすじだ。
ディザスター・ムービー(災害映画)は、その時代に生きる人類が共通して感じている集団的無意識を、あざといまでにデフォルメしたジャンル映画だ。大別すると二種類に分けられる。小惑星衝突やエイリアンが襲来する対外的要因が起こすディザスター映画と、身から出たさび――人間の傲慢や単視眼的な見方によって自ら招いた原因から、自然にしっぺ返しをされる人為的要因によるディザスター映画である。とくに90年代以降、それまで疑う人も多かった地球温暖化が、誰の目にも明らかなグローバルな問題として認知されるようになってからは、急激に人間文明を皮肉るディザスター映画が量産されるようになっている。「ツイスター」「デイ・アフター・トゥモロー」「ボルケーノ」「ヒアアフター」「ダンテズ・ピーク」「インターステラ―」「バイオハザード」「HELL」「ラスト・デイズ」などは竜巻、洪水、津波、大噴火、砂漠化、海水温上昇、遺伝子工学、地軸逆転がダイナミックに描かれている。そして、どの作品も多くの人の好奇心を満たしたであろうことは興行成績が物語っている。
虚構の物語とはいえ、全ては現社会に根差した不安から生み出されるサスペンスであり、ナンセンス極まりない描写や展開にさえ「あながち起こりえないことではないのではないか」という一抹の懸念となって、リアリティを感じさせる。実際、スマトラ沖地震や東日本大震災の映像を目撃した私たちの世代は、もはや映画が突拍子もない発想から作られるのではなく、全ては現実のデータや起こりうるリスクをそれなりの科学的知見に基づいて、細密に着想されていることを認めざるをえない時代に生きている。
「ジオストーム」は気候変動に加えて、人工知能(A.I.)のリスクという不安要素を取り入れており、これからもジャンル映画製作の傾向性をほのめかすようなディザスター映画になっている。また、人智を越えた脅威を前にした時、危機管理をどう働かせればいいのかという問題にも触れているあたりは、ちょっと「シン・ゴジラ」のようなシニックさも持ち合わせている。A.I.が人を越えるという展開は、とうにスタンリー・キューブリックが今から半世紀も前に「2001年宇宙の旅」でこれ以上ない形で不安をかきたてているので、全く新味ではない。しかし、ここ数十年の急速なバイオテクノロジーやロボット工学、無人兵器技術がもたらす不安や引っかかりは「技術的特異点(シンギュラリティ)」という言葉を生み出すほどに共有されているわけで、そうした気分を「ジオストーム」は詰め込んだといえる。
デフォルメ(誇張)という手法で現実の不安と戯れるディザスター映画とは対照的な、現実に取材した映画ジャンルはいわずもがなドキュメンタリーだが、10年ぶりに続編が作られた「不都合な真実2 放置された地球」も併せて観てみると、おもしろいのではないか。現実に地球で今、何が起きているのか、どこまで病理が進んでしまっているのかを元アメリカ副大統領アル・ゴアが今また詳述してみせるのだ。が、これがまた、どうかエンターテイメント映画のようにデフォルメであってほしい、と願わずにはいられない報告のオンパレードで、ショッキングと言うほかない。