2017年10月27日(金)に公開される「ブレードランナー2049」。往年のファンにとっては、ついにというか、感慨深いものがあるだろう。35年ぶりの第二作は、2時間43分という長尺。監督はフランス語圏のカナダ人で、「灼熱の魂」「プリズナーズ」「ボーダーライン」「メッセージ」と傑作ばかり手がけてきたドゥニ・ヴィルヌーヴである。
本作は特捜班のK(ライアン・ゴズリング)が30年前、レプリカント(人造人間)の女・レイチェルと恋に落ち、彼女をかくまうために失踪したデッカード(ハリソン・フォード)の足取りを追うというプロットから入る。これはSF作家・フィリップ・K・ディックの原作(「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)とは無縁のストーリー。監督もリドリー・スコットではないだけに、オリジナルを信奉としてきたファンからは正統性への懸念の声はあった。私個人としても、「ブレードランナー」の続編が作られるらしいとの噂を初めて耳にしたのは、業界が毎年行う新年度輸入公開作のレセプション会場で、今から2年くらい前のことだったと思う。その時は期待というより「え~、やめてほしい!」というのが本音。ここ数年を俯瞰しても「スター・ウォーズ」「エイリアン」「インディ・ジョーンズ」「ターミネーター」「マッド マックス」等々、70年代以降のエンターテイメントのスタンダードが、新シリーズやリメイクという形で次々と再構想、映画化されてきている。この「ブレードランナー2049」も「ああ、お前もか」と、そっとしておいてほしかった気がしたのだ。が、今回の新作のできはほぼ大多数の人から合格点をいただけるものといえるのではないだろうか。楽しみにされている方も多いと思うので、このコラムでは「2049」の内容には、極力触れないように筆を進めていきたい。
第一作が作られた35年前から今日の2017年までを振り返った時に「世界観が一変した」という言い方では表せない。急速にありようを変えていく世界観に私たちの感性が追いつけていないからだ。呆然たる面持ちで事態を観ているという言い方のほうが正しいのではないか。それほどモノも価値観も思考体系もスピーディーに変化する時代に私たちは生きている。今やA.I(人工知能)を備え、有機的に動く人型や動物型ロボットは日進月歩で現実のものとなっていくだろう。デジタル革命はネット空間を副次的な現実に置き換えていく。バーチャル・リアリティーは90年代の造語だが、当時とは隔世の感であり、一画引き揚げられた、もっと肌感覚に近い概念となりつつある。スマホはあらゆる情報や交信の世界の入り口であり、もはや端末ではなく神器、器具となり、さらに身体と化した。バスや電車に乗り合わせれば、ほとんどの人々が一心不乱に指先と視線を小さなツールに差し向けている。これが現世界のあらゆる都市生活の標準光景だ。いくらでも湧いて出てくる雲のように、ついこないだまで想像の域内だと思っていた技術やスタイルが商品となって、気づくと我々の眼前にある。
そんな思いにとらわれつつ第一作の記憶を呼び覚ませば、私はデッカードが人間社会に紛れ込んだ反乱分子のレプリカントを捜索するために用いた写真解析装置を動かす場面に感慨を抱いてしまう。その装置は人間の音声指示ひとつで一葉の写真を縦横無尽に分析し、左右上下に自在に回転し、画面の隅々はおろか映っている部屋の背後の空間にまで入り込み、果ては画像に映っていないはずの奥の部屋まで入り込み、眠る女性の姿を映し出すではないか。あの技術を観た時の衝撃はある意味、現実となった。例えば今日、最先端のデジタル技術で作られたGoogleマップを操る時に味わう全能感の衝撃に似てなくはないか。まるで、当時の映画製作のスタッフたちがタイムマシンか何かで、21世紀にやってきて現在を取材したうえで作ったとしか思えないぐらいの既視感に駆り立てる。
さらには35年前に「ブレードランナー」が描いた世界は2019年の暮れのロサンゼルスだった。2019年といえば、私たちにとっては今から2年後。東京オリンピックを目前に控えた年になる。デッカードはそんな年にレプリカントたちを追い回したわけだ。ゲイシャ(花魁)が微笑みかける巨大広告、松の盆栽、日本そば屋は、東京オリンピックで存在感をもう一度世界に示す日本的アイコンだったというわけか。35年前の「ブレードランナー」での東洋趣味は、日本的記号が目立ったわけだが、「2049」は中国かもしれない…。
とにかくドゥニ・ヴィルヌーヴによる「ブレードランナー2049」はリドリー・スコットの名を汚さないフィルムだと断言したい。難解さは二度目の鑑賞意欲をそそる謎となる。エンターテイメントと芸術の境を巧妙に行き来するヴィルヌーヴの才気は、「スター・トレック」をサイバーネット世界に生きる21世紀の観客の視線に耐えうる姿に一変させたJ・J・エイブラムスの成功例と並び位置づけられるだろう。